princeton.log

Princeton 大学の Department of Computer Science に一年留学する日本人が、学んだことや感じたことを綴ります。

アメリカの大学でアジア人として暮らすこと

f:id:liwii:20200220135941j:plain 最近、大学の近くに美味しいラーメン屋さんを見つけました。プリンストンには他にもラーメン屋さんがいくつかあるんですが、それらよりもかなり美味しく、また値段も$3ほど安いです(それでも$11しますけどね・・・)。最近は月に2回ほど通っています。心なしかここに通い始めてからメンタルが強くなったような気がします。食べ物って大事だなあ。

今日はプリンストンでアジア人として半年暮らして感じた、人種や民族なんかに関連する話をしたいと思います。もちろんアメリカに半年住んだだけの外国人が語り尽くせるようなトピックでは全くないのですが、できる範囲で個人として思ったことを書いていきたいと思います。

何故この話をするのか

アメリカ社会はよく「多民族社会」といわれます。プリンストンもその例に漏れず、色々な人種・民族の人が学んでいます。大学が公式に在籍学生の人種別の統計を出しているのですが、これによると最も多い白人でもその割合は44%で、その他にも多様な学生が在籍していることがわかります。かくいう僕も、こちらに来てから白人や黒人、ラティーノの友人や、アジアの他の地域からの友人ができました。 これだけ色々なバックグラウンドの人々に囲まれて暮らす経験は人生で初めてでした。
僕の両親は中国で生まれ、中国の大学を卒業した後に日本にやってきました。僕は所謂「移民二世」ということになると思います。とはいっても、僕自身日本で生まれ、5歳の時に家族全員で日本国籍を取得し、日本の小学校・中学校・高校を卒業して、家でも日本語を話しているので、日本人としての自意識がかなり強いです。しかし、僕の名字は「劉」なので、中国系としての自分を意識させられることもそれなりに多く、そのせいか人種や民族といったトピックについて昔から人より関心がありました。
そんな中、先学期にとった授業の一つが Asian American History です。この授業をとった直接の理由自体は「アドバイザーに勧められたから」という受け身のものでした。しかし、アジア人を中心として、アメリカ社会と人種間・民族間関係の歴史を辿っていく内容で、自分の今までの興味や新しくアメリカで見聞きしたこととリンクする部分も多く、本当に面白かったです。
とはいっても、最後にこの授業を受けたのはもう 2ヶ月以上の前で、もう学んだことも頭から抜けかけています。せっかくの経験をこのまま忘れていくのは勿体無い。自分のための備忘録も兼ねて、このテーマで記事を一本書くことにしました。

授業でやったこと

アメリカのアジア人と差別

さて、Asian American History の中で大きなテーマになっていたのは「差別」でした。
最初の授業は1800年代の中国人労働者とそれに対しての差別、そして中国人移民への排斥法案から始まります。その中で、いかに中国人労働者が「狡猾」「残忍」といったパブリックイメージをつけられ、それが日本人やフィリピン人といった後発のアジア労働者にも受け継がれていったかが語られました。
その中で、当時の政府による中国人移民に関する報告書を読むのですが、驚いたのは「欧米人と違って、アジア人には自制心を備えのに十分な脳の容量がないことが 科学的に 証明されている」という記述があったことです。めちゃくちゃな差別ですが、当時の彼らにとっては「合理的」な根拠があったわけですね。
その後およそ100年を経て、アメリカ社会のアジア人へのイメージは変容していきます。新聞などでは「勤勉」「聡明」といった言葉とあわせて描かれるようになり、19 60年代にはアジア人は自分たちの力で差別を打ち破って今の地位を確立した "Model Minority" と呼ばれるようになりました。
そのイメージ通り、現在のアメリカのトップ大学にはアジア人がめちゃくちゃ多いです。2017年の国勢調査によると、アメリカの人口全体におけるアジア人の割合は 5.6 % *1 ですが、先ほどのリンクによるとプリンストン大学の学部生のうちアジア人はなんと25%を占めます。
一方、黒人やラティーノといった他のマイノリティの人々のこうしたエリート校への入学率はいまだに低く、例えばアメリカ全体でのラティーノの人々は18%ほどであるのに対し*2プリンストンにおける今年のラティーノの学部生の比率は12%です(授業で出された統計ではもっと低かった気がするのですが、だいぶ改善されてきていますね)。
とはいえ、こういうマイノリティの方々の低い入学率は彼らが歴史的に差別されてきたことに大きく起因すること、また大学内の人種の多様性を担保するべきであるという考え方から、アファーマティブアクションと呼ばれる措置が取られています。これは、こうした歴史的に冷遇されてきたマイノリティの学生を入試の際に優遇するというものです。多くの場合、アメリカの私立大学の入試は、ペーパーテストだけでなくエッセイや推薦状、高校時代の活動などから判断される多角的なものなので、こういうことが可能なんですね。実際、黒人やラティーノの学生は名門大学に入学するために必要なSAT(センター試験のようなものです)の点数が有意に低い、という研究もあるようですね(ソースを見つけられませんでした)。
こうなると割を食うのは白人学生と、明らかに大学に多いアジア人学生です。最近は、彼らによる「アファーマティブアクションは逆差別である」とする訴訟まで起こっています。「歴史的に差別されてきたマイノリティ」であるアジア人が、「歴史的に差別されてきたマイノリティを優遇するための措置」であるアファーマティブアクションに反対する、という現象が起こっていたりするわけです。
と、ここまでは僕もなんとなく知っていたことだったのですが、授業で面白かったのはこのあとです。教授は "Racial Triangulation" という概念について話してくれました。これは、白人の既得権益層が黒人を自分たちより「劣った」(論文でも "inferior" という言葉が使われています) 人種として、アジア人を自分たちより「外部性の高い (≒ 政治などの社会活動に従事しない)」人種として位置付けることでマイノリティ間の対立を煽り、自分たちの利益を守っている、というものです。
例えば1960年代に出てきた "Model Minority" という言説も、同時期の黒人中心の公民権運動への批判から生まれたという側面があります。「アジア人は文句を言わずに自分たちで頑張ったのに、黒人は権利ばっかり主張してけしからん」という主張のために、アジア人が持ち上げられたわけです。マイノリティを抑えつけるために別のマイノリティが使われたということですね。
先ほどのアファーマティブアクションの話もこれに近いです。実はSATの点数に関してアジア人は白人よりもさらに冷遇されています。また、アメリカの私立大学にはよくOB・OGの子供向けの枠 (Legacy と呼ばれています)や、教授・大学職員による推薦枠があります。これらの枠を使って入ってくる学生は白人の割合がとても多いのですが、そうした人々への批判はアファーマティブアクションへの批判に隠されてしまいます。
また、Model Minority という概念自体がアジア人に不利に働くこともあります。この概念は、「記憶力はいいけど独創的ではない」「寡黙でリーダーシップがない」といったイメージも含んでいるので、企業の役員や政治家のうちのアジア人の比率はかなり低かったりします。こういう分野では逆にアジア人に対するアファーマティブアクションが必要なんですが、大学でのアファーマティブアクションに反対することが自分の首を締めてしまうわけですね。
もちろん差別されて来たマイノリティの方を優遇するのに特に理由はいらないと思います。しかし、そうした優遇に反対することが違う意味でマイノリティとしての自分自身の首を絞めることになる、というのは新しい視点でした。

キャンパスで過ごしていて感じること

アジア人としてのアイデンティティ

先ほどから僕は「アジア人」という言葉を多用しています。アジアというのは本当に広い地域なので、「アジア人」の名のもとに全てを一緒くたにするのはどうなんだ、という批判もあったりしますが、いずれにせよ日々の中でこの分類を意識することはよくあります。例えば、「あの Eating Club にはアジア人が多い」ということを友達に言われたりします。他にも、特定のサークル (こちらでは Club と呼びますが) のメンバーのほとんどがアジア人だった、ということもよくあります。この間僕が見にいった友達のダンスグループの公演でも、出演者の8割以上がアジア系だったような気がします。
僕自身の友人も、交換留学生を除くとアジア人がとても多いような気がします。日本人はもちろん、中国系、韓国系の友人もたくさんできました。やはりアメリカの文化と比べると、彼らの文化は日本文化にすごく近いような気がします。僕はこちらに来た直後、お酒を飲んでクラブで3時まで踊ったり、〇〇を吸ったりするのがそこまで珍しいことではない、という事実に非常に面食らったのですが、そういう戸惑いをアジアの他の国から来た友人とは共有することができました。また、食文化も割と近いものがあるので、アメリカの食べ物に対する愚痴で盛り上がったりすることもあります。
日本にいると、近隣のアジア諸国への反感めいた発言をよく耳にする気がします(僕が立場上敏感なだけかもしれませんね)。しかし、アメリカに来て初めて「アジア」という地域の関連の強さを感じました。みんなで仲良くできればいいのになあ、という小学生みたいなことを最近は考えています。

Japanese American とか Chinese American とか

さて、先ほどは主にアジアの他の国からの留学生の話をしたんですけど、実際にプリンストンで出会うアジア系の学生は「両親がアジアのどこかからアメリカに渡ってきて、自身はアメリカで生まれ育った」という境遇の人がほとんどです。いわゆる "Japanese American" とか "Chinese American" と呼ばれる人たちですね。彼らと話していて驚くのは、アメリカで育ち、アメリカで教育を受けているにも関わらず、自分のルーツがある国の文化への関心がとても高いことです。
例えば言語の面では、親が日本人の子はかなり日本語がうまい場合が多い気がします(聞けば、そのために日本語の補習校に通ったりする場合もあるらしいです)。そんなに得意じゃない子たちも、僕に会うと日本語で話しかけてくれたりするのでちょっと嬉しくなります。僕の従妹は Chinese-Americanなんですけど、彼女も僕と違って中国語はペラペラです。
また、JSA (Japanese Students Association) という、日系の学生を中心にみんなで日本食を食べたりする Club があるのですが、それにもみんな積極的に参加している気がします。CSA(Chinese Students Association)もあるんですが、9月に僕にこれの説明をしてくれた学生は中国に住んだことのない Chinese American でした。
これは僕にとっては結構驚きでした。僕の東大での友達にも結構両親のどちらか(もしくはどちらも)が中国人の人が結構いますが、中国系学生の会があるという話はあまり聞いたことがありません。
これが何故なのかを考えてみると、アメリカでは両親のどちらかが外国からきている人がかなり多い、というのが一つの要因としてあげられると思います。アジア系の学生以外でも、両親、もしくは祖父母のどれかがヨーロッパやアフリカから来ている人はかなり多いです。こうなってくると、「アメリカ人であること」と「日本人/中国人であること」が両立するわけです。アメリカの人の多くは、自分の目に見える範囲で外国とのつながりを持っているのですから。
対して、日本における外国にルーツを持つ学生の数はまだ少ないです。それによってか、日本において自身の「外国人性」を主張すると、周りの人に「非日本人性」の主張として取られることが多いんじゃないかと思います。
例えば僕が「劉」という名字で生活していると、アルバイトを始めるときに外国人のための在留カードの提出を求められたりとか、偉い人に「留学生?日本語うまいね。」といって話しかけられたりとかということがよくあります。彼らは僕の名字が中国人っぽいことから、僕は日本人ではないだろうと考えたのでしょう。悪気はないと思うんですけどちょっと悲しいですよね。
そういう状況であんまり強く自分の中国人性を強く主張する、ましてや中国系の学生会を組織するなんてことは、なんだか日本社会から引き剥がされてしまう気がしてちょっと怖くてできないわけです。実際、両親とも中国人だけど日本人っぽい名字を名乗って生活している友人も多数います。僕自身は、両親が中国出身であることで人にはできない経験もできて、色々なことを考えるきっかけになったので、すごくよかったと思っているんですが、それでも自分の名字について人に何か聞かれた時は少し身構えてしまいます。 アメリカと同じように、いつか日本でも、「外国人」というレッテルを貼られるのを恐れることなく、「僕の両親は関西出身で〜」というときと同じように自然に、「僕の両親は中国出身で〜」と語れる社会になるといいなと思います。

ちょっとまとまりがない感じですが、思っていることを書いてみました。前も言ったように最近ネタ切れ気味ですが、来週も何か面白いものがかけるように頑張ります。